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大河ドラマ 真田丸 第38回 「昌幸」 感想

2016年9月27日

真田丸

大河ドラマ「真田丸」の第38回の感想です。

第38回 「昌幸」

あらすじ

昌幸(草刈正雄)は、紀州・九度山村に幽閉される事となった。

信之(大泉洋)からの手紙で、幸の字を捨てた事をしった昌幸は、信繁に幸の字をくれてやるという。
一方、信之は家康(内野聖陽)へのご赦免の手紙をせっせと書いていた。

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上杉景勝(遠藤憲一)は、謝罪し米沢30万石に減封される事となった。
いづれは上杉を頼るつもりだった昌幸の思いは潰えた。

慶長8年、家康は征夷大将軍に任ぜられた。
昌幸は、家康は浮かれているとし、赦免の日も近いと言う。しかし、信之からの手紙を家康は見ようともしないのだった。

さらに2年後、征夷大将軍は秀忠に任ぜられた。
今後は、徳川が政を行うという事を世に知らしめる事だと信繁は言う。この機会が、赦免の最後の機会だという昌幸。

やはり、家康は昌幸を赦免する事はしなかった。
慶長11年、秀頼主催の鷹狩が催された。そこには、加藤清正(新井浩文)も付いていた。

その頃、九度山村で信繁は、江雪斎(山西惇)と出会う。江雪斎は、隠遁するというのだ。

蟄居ぐらしにもなれたという信繁に、お主の眼差しのおくにくすぶっているものがあると言うのだ。いずれ誰かが、その火をを求めにこようと行って立ち去るのだった。

昌幸は、村の揉め事に手を貸す事になった。かつての信濃で村人たちに教えたように、戦を指南するのだった。
しかし、途中で話を止めてしまう昌幸。信繁は、浅野の殿様に話をするように村人たちに伝えるのだった。

本多忠勝(藤岡弘、)は、竹とんぼを作る際に手を切ってしまい、家康に隠居を申し出る。
まだ、西の方でひと波乱あるやもしれないという家康に、そのときは蜻蛉切を片手に参上するという。家康は、忠勝の隠居を許可するのだった。

清正は、且元(小林隆)に成長した秀頼(中川大志)を家康に合わせようと提案する。

家康は、上洛し自らが立て直した二条城にて対面するという。秀頼が家康に従ったと世間は思うだろうという。
豊臣秀頼は、家康と会見する。秀頼の一言に、家康はおもわずひれ伏してしまう。

信繁の息子・大助は村の子に罪人の息子だと言われ落ち込んでいた。信繁は、罪人ではなく流れでこうなっただけだと説明する。
昌幸は、2度も徳川をやぶった方だと賞賛する。昌幸は、大介相手にけんかのやり方を指南するのだったが、信繁が目を離している間に倒れてしまう。
床にふせる昌幸は、信繁に自らが書いた戦場での全てを記したとした兵法書を信繁に譲るという。

昌幸は、遺言だとして信繁に言う。いずれ、豊臣と徳川はぶつかると。その時、ここを抜け出して豊臣に付けと言う。
10年かけて考えた策だといい始める。手持ちの軍勢で尾張を制する。徳川が攻め込んできたら、頃合いを見て尾張を捨てる。
そして一旦近江まで引く。一時でも尾張をとった事で、徳川に不満をもつものたちが出てくると。さらに、橋を落として追撃を阻むとする。
その間に、二条城を焼き払うとし、そうなれば徳川勢は大坂を攻めかかるしかない。大坂城で迎え撃ち戦を長引かせるようにしろと言う。
その間に各地で反旗が上がると。そうなれば引くしかなくなると。負ける気がしないという昌幸であった。

信繁は、自分がやってうまくいくかどうかと言う。場数が足りないという。しかし、昌幸は場数はいらないといし、軍勢を一つの塊とみるなと。
一人一人が生きている、一人一人が思いを持っている、それを忘れるなと言うのだった。

昌幸の床の回りに皆が集まる。昌幸は、信濃に帰りたかった、上田の城に帰りたかったとぽつりと言う。
その時、昌幸は突如「御屋形様」と叫び出す。昌幸は、そのまま息を引き取った。

感想

関が原の戦いの戦いからの10年余りが一気に過ぎていきました。昌幸は、この間に九度山から出る事は出来ませんでした。本人は、なんだかんだでそのうち出られるだろうと思っていたようですが、家康は本気で死ぬまで九度山から出す気はなかったようです。

家康は、征夷大将軍になり着々と基盤を築いていきます。既に世は、二代将軍秀忠の世となっていました。

その間に、信之の舅で昌幸の命を救った忠勝もこの世を去りました。さらに、加藤清正も世を去っています。清正は、服部半蔵(2代目)の手にかかって病死という事になっているんですね。一気に2人がナレ死となりました。

家康は、二条城で秀頼と対面した訳ですが、そのあまりにも堂々とした姿に、恐れをなしたのでしょうね。豊臣家を潰さなければならないと思った事でしょう。これが大坂の陣へとつながっていく事になったという訳です。

そしていよいよ昌幸の最期となりました。蟄居生活だけで10年以上に渡るわけですが、あっというまに過ぎ去って行きました。昌幸は、この間に兵法を書いていたのですね。豊臣と徳川の戦が起こると予見していたのは、そのとおりになる訳ですが、実際には全国で反旗が上がる事はありませんでした。昌幸は、まだまだ徳川に勝てると思っていたのですね。
そして、最期まで信玄の幻影を追っていたのかもしれません。

次回、昌幸亡き後、信繁はまだまだ九度山での生活をおくるようです。

 
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